史実とおりに再現 園内布陣図




関ヶ原の戦いで争った二派は、徳川家康を総大将とする東軍と、毛利輝元を総大将とし石田三成を中心とする西軍である。東軍・西軍の諸将 の多くは豊臣恩顧の武将であり、この戦いの性格について家康は豊臣家の家臣同士の成敗合戦(豊臣家に仇為す者を成敗する)という建前をと り、また、豊臣家も表向きは静観の立場を取った。しかし、この戦いは実質的に徳川家康の覇権を決定づけることとなった。


●午前5時 東西・両軍布陣完了
西軍:宇喜多秀家が天満山付近に布陣して、東西両軍の布陣が完了。西軍は北国街道沿い、笹尾山麓に石田三成、秀頼麾下の黄母集衣衆。北国 街道をはさんだ小池村後方に島津義弘、その右翼、池寺池手前に小西行長、南天満山に宇喜多秀家、中山道沿いに平塚為広、戸田重政、大谷吉 継。松尾山麓に赤座、小川、朽木、脇坂の順に布陣し、この後ろに木下頼継、大谷吉勝。松尾山には小早川秀秋が陣取り、さらに伊勢街道を越 えた南宮山に毛利秀元。山の反対側には、吉川広家、安国寺恵瓊、長束正家、長宗我部盛親。西軍の布陣は東軍を完全に包囲した鶴翼の陣であ る。一方の東軍は、ほとんどの軍勢が関ヶ原の平野に布陣し、家康は南宮山の麓・桃配山に陣を布いた。さらに安国寺・長束・長宗我部と下山 してくる可能性のある毛利に備え、中山道沿いに有馬豊氏、山内一豊、池田輝政を配置。しかし敵の鶴翼の陣に比べると不利である。決戦の朝 は霧が立ちこめ、双方共に相手の姿が肉眼では見えない、厳しい条件での布陣となった。


※この時の「鶴翼の陣」と呼ばれる陣形は、大谷吉継の考えによるといわれているが、実際には時系列にそって並べると偶然の産物ではない かとの見方もある。特に松尾山に布陣した小早川の動きを石田三成が把握していたとは考えにくい。

●午前8時 開戦
井伊直政・松平忠吉の両名が先陣をきり、宇喜多秀家隊に攻撃を仕掛ける。これに気づいた福島鉄砲隊およそが宇喜多隊に向かって発砲。これ が合図となって開戦となる。

●午前9時 前線部隊大激突
開戦から1時間、石田隊の島左近が、迂回していた黒田隊の鉄砲部隊の狙撃により負傷。後陣に退く。宇喜多隊×福島隊では、宇喜多隊の先 陣・明石全登が善戦し、一進一退の攻防となる。

●午前10時 家康、本陣を前進させる
東軍がやや押しているが、各隊、一進一退の攻防が続く。家康は戦の行方未だ定まらないことに苛立ち、本陣を前進させる。一方、石田三成 は、動きを見せない島津隊に出撃催促の使者を送ったが、この使者が馬上から用件を話したため、島津隊は激怒。のち、三成自らが島津陣を訪 れ、先の使者の非礼をわび、出撃要請をしたが、島津は「まだその時ではない」として応じなかった。松尾山の小早川秀秋は、未だ動かず。こ れに伴うように、山麓の脇坂・小川・朽木・赤座の4将も動かず。南宮山の毛利秀元・吉川広家もこれに同じ。

●12時 小早川秀秋裏切る
三成、家康双方ともが固唾を呑んで見守ったのが、松尾山の小早川の進退である。開戦から3時間以上経過しても小早川は動かなかった。三成 は度々出撃の狼煙を上げたが動きなし。一方の家康も、戦前に秀秋から寝返りの約束を受けており、いつ寝返るのか待ちかねていたが、 一向に動く気配がないため、小早川陣に向かっての一斉射撃を下命する。小早川がこれを「攻撃」ととって西軍に味方する可能性をはらんだ行為だったともいう。ともあれ、この 一斉射撃を機に小早川隊は山を降り、中山道沿いの大谷吉継隊の攻撃に入った。そして、こ れに追従するかの如く、赤座、小川、朽木、脇坂の各隊も寝返り、一斉に大谷隊を襲った。

●午後1時 西軍潰走
小早川隊他4部隊の寝返りによって、奮戦むなしく大谷隊は全滅。大谷吉継本人も、自害して果てた。この大谷隊の壊滅に連座して、その左翼 の宇喜多隊が総崩れとなり、開戦早々から敗走傾向にあった小西隊も本格的に潰走し始めた。宇喜多秀家は、小早川陣に馬を向け、「金吾め (秀秋)と刺し違える」と憤激していたが、明石全登が何とか抑え、退却させたという。黒田、細川などの軍と善戦していた石田三成隊も、つ いにほぼ壊滅状態になった。開戦早々に負傷して後陣に下がっていた島左近は、再度出陣して討ち死にしたと伝わる。石田隊は、左近負傷後、 蒲生郷舎が前線で奮闘していたが、全軍 敗走に至り、敵軍を一所にひきつけて、壮絶に戦死したとされている。この郷舎の敵軍誘導により、乱戦著しい自軍本陣から、三成は伊吹山方面に逃れることに成功した。終始不 動の島津軍は石田隊を追撃するために自陣に迫る敵軍を 迎撃するのみであった。東軍は、勢いに乗って押し、家康麾下3万近い軍勢が新たに参戦。

●午後2時 島津軍敵中突破を敢行
敗走していく西軍を横目に見ながら、じっと動かず、振りかかる火の粉のみを払ってきた島津軍がついに動いた。方向はなんと前方。北国街道 を走りぬけ、伊勢街道から戦場離脱をはかるという無謀極まりない動きだった。開戦当初は1500人ほどいた兵士も、乱戦のなか自陣に攻め 寄せる敵軍を迎撃してきたため、半数以下(一説に300〜500人ほど)になっていたが、全軍一丸となって、敵中に突入。前進してきてい た家康の本陣から、その壮絶な退却劇が見えたともいう。東軍諸隊は、これの追撃を開始し、徳川麾下では、井伊直政・松平忠吉などの追撃が 執拗だったが、島津軍は、同家特有の退却法・すてがまり戦法を使い、これを振り切った。すてがまりは、少しづつ兵士が戦場に踏みとどまっ て、敵軍を足止めする捨て身の戦法である。この島津追撃戦の最中、井伊直政・松平忠吉共に負傷。島津軍は、戦場を脱出した後、鈴鹿山系の 五増峠を越え、近江、水口、大和、河内和泉と抜けて、摂津に至る。義弘は辛うじて逃れてこれたものの、島津豊久が戦死。戦場を離脱した時 に残っていたのは、わずかに80名ほどであったという。

●午後3時 東軍勝利
東軍は、負傷者の続発で、島津軍の追撃を中止した。一方、南宮山麓の諸将も、西軍の敗報に触れると退却を始めた。ここにおいて、天下分け 目の戦は終結した。時間にしておよそ7時間。20万人が集合した激突にしては、早い終結である。

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