100分の1ジオラマ 屋外展示の武将像

東軍:徳川家康の陣 首実験場

湯浅五助とは、西軍の将・大谷吉継の側近で勇猛な士として名をはせていた人物である。大谷隊が壊滅したとき、切腹する主君に「病んだ醜 い顔を敵に晒さないでほしい」と遺言された五助は首を埋めて隠した。しかし敵の藤堂高刑に発見されたので「私の首をやる代わりに、主君の 首をここに埋めたことを秘密にして欲しい」と頼み、高刑はそれを受けて五助の首を取った。家康はその手柄を褒めつつ、五助ならば主君の居 場所も知っていたはずだと詰問したが、高刑は約束を守り頑としてその在処を言わなかったという。その姿勢に家康は感心し、褒美として自分 の槍と刀を与えたといわれている。

西軍:石田三成の陣

三成は豊臣政権の五奉行の一人。上杉家の直江過兼続らと計画し、毛 利輝元を総大将に家康と敵対するが、輝元が大阪城にいたため関ヶ原では総指揮をとっている。関ヶ原で敗れたのち、自国の領土・近江古橋 (現滋賀県米原市)で田中吉政に捉えられ、京都六条河原にて処刑される。

小早川秀秋の陣

秀秋は現代に至るまで優柔不断かつ暗愚な武将として評価されることが多い。こうした評価は秀秋の生前から存在しており、人柄が軽薄であ り、兄達に著しく劣る人物であるという酷評すら存在する。一方で、初陣である慶長の役の蔚山城の戦いでは、秀秋は自ら馬に乗り勇猛果敢で あったことや、岡山藩主となってからは家老の補佐があったとはいえ、無難な統治手腕を発揮している。 民達からも慕われていたらしく、全くの無能ではなかったのではないかとも言われている。

西軍:大谷吉継

25歳頃に今でいう「ハンセン病」に侵され、関ケ原の戦いの頃は失明状態であった。余命幾ばくもない命とさとり、賭けを承知で20年来 の盟友「石田三成」に組し、奮戦するも小早川の寝返りにより自害する。享年42歳。関ケ原の戦いで切腹したのは大谷吉継のみ。ゆえに敦賀 5万石の小身でありながら、個人名で国の史跡に指定されている。

西軍:島津義弘

たまたま他の用事で上洛していたが、石田三成の挙兵に巻き込まれ、やむなく西軍として参陣した。自らは討ってでず襲ってくる者だけと 戦っていた。西軍が負けると皆撤退し、最後には島津隊のみが取り残された。他の部隊は伊吹山山中へ逃亡するが、島津隊は東軍の真っただ中 中央突破。命からがら堺から海を渡り鹿児島へ帰還したが、生き残った者は数十人しかいなかった。

西軍:島 左近

石田三成が水口城主となった頃、三顧の礼をもって迎えたといわれる武将。三成より年上で武勇知略に優れた武将として知られており、三成 は自分の給料の半分を与えたといわれる。関ケ原合戦では、戦下手といわれる三成の参謀として本戦の指揮をとっていたが、開戦直後に黒田長 政隊の銃撃により負傷、手当をうけたあと再度戦場へ入るが、その後左近を見たものはなく死亡したと思われている。

東軍:山内一豊

豊臣恩顧ではあるが秀吉亡きあと、妻である千代のすすめにより東軍として参陣。本線では南宮山、毛利勢をおさえるが特に武功はあげてい ない。しかし、一豊は下 野国小 山における軍議(いわゆる「小 山評定」)で諸将が東軍西軍への去就に迷う中、 真っ 先に自分の居城である掛川城を家康に提供する旨を発言し、まわりの武将たちが東軍になびくよう流れを作っている。この本戦にいたるまでの 功績と千代の助言により土佐、高知の大大名となる。

東軍:井伊直政

徳川四天王のひとり。開戦の一番のりは福島正則と決まっていたのを、抜け駆けし西軍・宇喜多秀家隊に発砲したため開戦の幕がきられた。 終盤、逃げる島津隊を追撃し鳥頭坂で絨毯を浴び、2年後に死亡。享年41歳。関ヶ原の戦いで大怪我を負ったにも関わらず、精力的に戦後処 理と江 戸幕府の基礎固めに尽力し、西軍の総大将を務めた毛 利輝元との講和に務めた。直政が死去した当初、地元の民衆達の間で三成の亡霊が城下を彷徨っ て いるという噂が広まり、家康は佐和山城を始めとする三成に関係する物の全てを廃した。

その後、彦根城の 築城が開始されると同時に佐 和山藩(18万石)は廃藩となった。代わってこの地には新たに彦 根藩(35万石)が置かれた。それ以来、この地は明治時代になるまで井伊氏の藩として大いに栄 え ている。

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